踊る人 おどるさかな げんきにふらふらしています
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「かっこいい大人のいるほうへいるほうへ進んできた」
この夏からイスラエルに行ってしまった僕の大好きなダンサーがふとつぶやいていた。
シンプルだ。
それ以上何がいる?
アフタートークはいらない話。
今流行のアフタートークのゲストは客寄せパンダ。
チケット売るための作戦でしかない。
面白いアフタートークは話しが面白い人が、作品とは全然関係ない話をしているもの。
が、話しが面白いダンサーなんて早々いないから、
作者とゲストダンサーのアフタートークは熱心なファンが喜ぶだけ。
批評家だとその人の見解が印象に残ってしまう。
そんなに裏話を聞きたいんだろうか。
第一、大勢の前で本当のところをズバズバ話せる人なんてそうそういないし、
つい口をついて出た嘘か本当か分からない話を鵜呑みにして帰るぐらいなら、
自分でじっくり持って帰って反芻したい。
作品の中で伝え切れなかったならそれは作り手の力不足か努力不足。
アフタートークや当日パンフレットで伝えれば良いやだなんてもってのほか。
30分もアフタートークを聞くくらいなら、
美味しいコーヒーを飲みにいきたいし、一杯ひっかけていたいものである。
ちなみに、僕がアフタ—トークを聞きたいと思うのは、
クッソつまんない舞台を見たとき。
どういうつもりか聞いてみたくなる。
てことはやっぱりいらないよね。
帰れば良いんだから。
目指すところの違いによる肩書きの違いの話
名刺になんと書くか。
それはその人がどこを向いて生きているか。
例えば、ダンサーと役者は似て非なるもの。
必要条件が違う。
ダンサーはキャラクターからアプローチする必要はないし、
役者は身体からアプローチしなければならないわけではない。
ダンサーと役者はそう簡単に同じ舞台に立てないし、簡単に立つべきではない。
ダンサーがダンサーとしてのアプローチで芝居をする事はあっても、
一線を越えて役者としては立つべきではない。
ダンサーはあくまでサンサーである。
俳優業をこなしても、歌を歌っても、ダンサーはダンサーである。
同時に立てるのは、未熟か卓越してしまっているか二つにひとつだ。
同様に、
どんなにダンスに見えても、作り手が芝居として作れば芝居だし、
どんなに台詞をしゃべっていても、ダンスとして作っていればそれはダンス。
しかし、見る側は勝手にこれがダンスだ、これが芝居だと決めつけているので、
色々言い始める。
本当はダンスだろうが芝居だろうが関係ない。
コンテンポラリーダンスだろうが舞踏だろうが関係ない。
なんであろうと、満足する時は満足するし、満足しない時は満足しない。
今日のところの分析では、概して、
ダンサーは限りなく自分であることが良しとされ、
作者はは限りなく自分と遠い存在になれることが良しとされる。
自分をさらけ出すことで自分が現れるのか、
他者になり切る事で自分が現れるか。
たとえ結果は同じであっても、
アプローチが違えば全然違う。
だんもんで、ぼくは踊る人です。
この先お芝居をする事があっても、踊る人です。
舞踏かコンテンポラリーかストリートか何て関係なく、ただ踊っているだけです。
この夏からイスラエルに行ってしまった僕の大好きなダンサーがふとつぶやいていた。
シンプルだ。
それ以上何がいる?
アフタートークはいらない話。
今流行のアフタートークのゲストは客寄せパンダ。
チケット売るための作戦でしかない。
面白いアフタートークは話しが面白い人が、作品とは全然関係ない話をしているもの。
が、話しが面白いダンサーなんて早々いないから、
作者とゲストダンサーのアフタートークは熱心なファンが喜ぶだけ。
批評家だとその人の見解が印象に残ってしまう。
そんなに裏話を聞きたいんだろうか。
第一、大勢の前で本当のところをズバズバ話せる人なんてそうそういないし、
つい口をついて出た嘘か本当か分からない話を鵜呑みにして帰るぐらいなら、
自分でじっくり持って帰って反芻したい。
作品の中で伝え切れなかったならそれは作り手の力不足か努力不足。
アフタートークや当日パンフレットで伝えれば良いやだなんてもってのほか。
30分もアフタートークを聞くくらいなら、
美味しいコーヒーを飲みにいきたいし、一杯ひっかけていたいものである。
ちなみに、僕がアフタ—トークを聞きたいと思うのは、
クッソつまんない舞台を見たとき。
どういうつもりか聞いてみたくなる。
てことはやっぱりいらないよね。
帰れば良いんだから。
目指すところの違いによる肩書きの違いの話
名刺になんと書くか。
それはその人がどこを向いて生きているか。
例えば、ダンサーと役者は似て非なるもの。
必要条件が違う。
ダンサーはキャラクターからアプローチする必要はないし、
役者は身体からアプローチしなければならないわけではない。
ダンサーと役者はそう簡単に同じ舞台に立てないし、簡単に立つべきではない。
ダンサーがダンサーとしてのアプローチで芝居をする事はあっても、
一線を越えて役者としては立つべきではない。
ダンサーはあくまでサンサーである。
俳優業をこなしても、歌を歌っても、ダンサーはダンサーである。
同時に立てるのは、未熟か卓越してしまっているか二つにひとつだ。
同様に、
どんなにダンスに見えても、作り手が芝居として作れば芝居だし、
どんなに台詞をしゃべっていても、ダンスとして作っていればそれはダンス。
しかし、見る側は勝手にこれがダンスだ、これが芝居だと決めつけているので、
色々言い始める。
本当はダンスだろうが芝居だろうが関係ない。
コンテンポラリーダンスだろうが舞踏だろうが関係ない。
なんであろうと、満足する時は満足するし、満足しない時は満足しない。
今日のところの分析では、概して、
ダンサーは限りなく自分であることが良しとされ、
作者はは限りなく自分と遠い存在になれることが良しとされる。
自分をさらけ出すことで自分が現れるのか、
他者になり切る事で自分が現れるか。
たとえ結果は同じであっても、
アプローチが違えば全然違う。
だんもんで、ぼくは踊る人です。
この先お芝居をする事があっても、踊る人です。
舞踏かコンテンポラリーかストリートか何て関係なく、ただ踊っているだけです。
PR
この記事にコメントする
プロフィール
HN:
はまー
年齢:
37
性別:
男性
誕生日:
1987/05/24
職業:
踊る人
趣味:
走る跳ぶ歌う
自己紹介:
おどるさかな代表
踊る人。大阪生まれ愛媛育ち。ミュージカル俳優を志すも、近藤良平作品「山羊ボー走」出演を機にダンスの道へ。同作品のNY 版にも参加。「元気にふらふら」をモットーに、 踊る場を求めて劇場内外を放浪している。2012.5.30に、初の単独自主ソロ公演「えらびしぶる」をSTスポット横浜にて行う。ここ一年では、近藤良平作品「山羊の一生」、 平原慎太郎作品「街」の他、fundada.、AAPA、Monochrome Circus、Baobab等のカンパニーの作品に出演。(2012.06.23更新)
踊る人。大阪生まれ愛媛育ち。ミュージカル俳優を志すも、近藤良平作品「山羊ボー走」出演を機にダンスの道へ。同作品のNY 版にも参加。「元気にふらふら」をモットーに、 踊る場を求めて劇場内外を放浪している。2012.5.30に、初の単独自主ソロ公演「えらびしぶる」をSTスポット横浜にて行う。ここ一年では、近藤良平作品「山羊の一生」、 平原慎太郎作品「街」の他、fundada.、AAPA、Monochrome Circus、Baobab等のカンパニーの作品に出演。(2012.06.23更新)
カレンダー
02 | 2025/03 | 04 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 |
30 | 31 |
リンク
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター